2016年7月10日日曜日

菱田春草の夫人、千代さんは、大変うつくしくて、目のくりくりした、なにか可愛らしいところのある女性であったらしい。写真で見てもそうだが、

春草が最晩年に試みた大作「雨中美人」の下絵(部分)で見るとましてやそうだ。


下絵の準備のスケッチで見るともっとかわいい。

「雨中美人」の制作は、春草の妹さんの述懐によれば、
「これをかく時に姉は神田の髪結に行き日本髪をきちんと結い、着物をちゃんと着ていました。 その美しい姉の姿を忘れません。 」
ということで、随分身を入れての取り組みだったらしいが、千代夫人の回想によれば、
「幾枚かの写生をいたし屏風にかかりましたが、着物の色が思ふ様に行かないと止めてしまい出品の日数も迫つてきましたので、終に小さいものにしてしまい黒き猫が出来た譯で御座います」
ということで、下絵だけが残された。うまく出せなかった着物の色というのは、春草の従兄弟高橋錬逸によれば、お納戸色だったという。

下絵に見る限り、「雨中美人」は線の美しさ、構図のリズムともに魅力的な構想で、中断は残念な気がするが、他方、初めて審査員となった記念すべき第4回文展に、自分の妻のかわいらしさをそのまま描いて出したときにどう受け止められるかについては、複雑な気持ちもあったかもしれない。春草の描く顔については、従来から「単調でリアリティがない」との批判があったが、春草には写実をそのまま作品にしたくない考えがあったとも思われる。

「雨中美人」の下絵が発見されたのは今から一年余り前の2015年3月のことであったが、本年5月には、春草筆と称して、
「雨中美人」の千代さんと同じ髪型をして、お納戸色の着物を着た、目の大きな女性の軸がネットオークションに出た。

線から色彩へと進み、そして晩年には線と色彩の調和に腐心した春草が、千代夫人の姿を完成していたらどうだったろう、と考える人があったものであろうか。あるいは、落款の書体や印は1908年ないし1909年の「椿に猫」や「富士」と似ているので、そこも意識されているとすれば、1910年の「雨中美人」に先行して試みた作品を擬して描かれたものであろうか。

写真や「雨中美人」に見る千代夫人の可愛らしさがこの作品には余り出ていないのは残念だが、
お着物に描かれた花を髪に飾っているところが描いた人の気持ちであろうか。

着物の下に女の人の体形が立体的に思い浮かぶ点は、春草の従来の人物像よりは「雨中美人」に近い感じがする。


落ち着いた色合いの作品で、部屋に飾って、愛着があるので、紹介させていただいた。